□Wanna be Poisonviper/2002.3.28/DR.COBA

唐突だが、Dr.コバには子供がいない(いたら子供がかわいそう)。しかし三十路にもなると、「妻子持ちの友達」ってのが増えてくる。昔、自動販売機荒らしに精を出してたようなヤツが立派な「お父さん」になってたりすると、「あんなヤツでもお父さんになれんだ(笑)」と思いつつも、尊敬めいたものを感じてしまうことがある。そして、子供がいない人にとって「子供がいる」状況は想像しがたく、まったく占える範疇にない。ましてや、自分の子供がある程度「自我」を持ったときのことを考えると、想像するだに恐ろしい。子供はある時期になると「なぜなに君」になる。なんでこうなるの?あれはなんなの?それに対する明確な答えができるだろうか。子供が納得する答えであることはもちろん、「こう答えたオレ」に対しても自身満足がいくようでなければならない、と思う。子供「子供はどうやって生まれるの?コウノトリさんが運んでくるの?」父「あっはは、それは違うぞ。お父さんが興奮して陰茎をな、(後略)」これじゃだめだ。なんでもかんでも真実をロジカルに教えればいいってもんじゃないだろう。かといって「そのとおり。コウノトリが運んでくるんだよ」とロマンぶりぶりに教えるのもどうかと思う。子供が判る判らない以前に、なんだか自分自身が釈然としない。もっといい答えがあるのではないだろうか…。しかし、最近こういった「子供さながら」の疑問に対するひとつの回答例を目の当たりにした。それは、皆さんご存知の「こども電話相談室」におけるやりとりである。質問は5歳の子供から寄せられたもので、「僕はウルトラマンになれますか?」というもの。皆さんならなんと答えますか?かなりムズいでしょ。その難問に立ち向かい、妙味な回答を番組ではじき出したのは、なんと!毒蝮三太夫その人である。あるときは公共の電波で一般市民を「このババア!」と罵って笑いをとる無頼漢。そんな一杯呑み屋で年中クダまいてそうなゲスな男が発した名回答、その一部始終をごらんいただこう。
-------------
毒:キミはウルトラマン、いると思う?こども:うん。毒:いてくれる人ってなかなかいないよね。僕も昔はウルトラマンの隊員で、宇宙に行ってたんですよ。だけど、これはテレビでのお話。本当に飛んで行ったんじゃなくて、撮影でうまく合成していたわけね。だけど今の毛利さんとかは本当に宇宙に飛んで行っちゃってるんだからすごいよね。ウルトラマンが出来た30年前にはウルトラマンがいるとは誰も思ってなかったんだけど、あと30年後にはウルトラマンみたいな人が本当に出てくるかも知れないね。だから、キミだってウルトラマンになれるかもしれないんだよ。ウルトラマンになるにはね、人にやさしくして、間違ってることにははっきり間違ってると言ったり、人が困ってるときには助けに行ったり、戦争をしている国があったら「そんなばかばかしい事は止めろ」と言ったりするの。ただボーッとしてたんじゃ、ウルトラマンになれないんだ。お父さんやお母さんの言うことをよく聞いて、友達とも仲良くして、そうだなあ、みんなの見本になるようじゃないとウルトラマンになれないよ。
--------------
「いると思う?」と聞いて「うん」と答えた子供に対し、「撮影でうまく合成していたわけね」と単刀直入に否定。「なれるよ!」と発する前に事実を述べること。たとえ相手が5歳児であっても。それが真の「大人らしさ」ではないだろうか、と思わせる。さらに続けざま、未来的な持論を展開する回答は見事だ。なによりも見事なのは、後半が単なる「教育的おしつけ」ではなく「理にかなっている」ことだ。スピリチュアルに考えると、ウルトラマンとは単なる偶像にすぎない。その定義を「宇宙から来て(宇宙を超越してやって来て)、光線を使って(テクノロジーを使って)調和を促す」こととすれば、「ウルトラマンになれるかもしれない」という毒蝮発言は、あながち嘘ではない。さらに言うと、オレらが子供の頃のウルトラマンは、宇宙からやってきた怪獣を「駆逐」するものだったが、今のウルトラマンコスモスは、光線でバーンと破壊するのではなく、やんわりとした光で怪獣をつつみ、異次元に「送り返して」あげるというものに様変わりしている。ウルトラマンの仕事は、時代によって「変わる」のだ。そういう意味からしても、未来にはその時代に適合した「ウルトラマン」が実社会に登場していてもおかしくはない。もちろん、なりたい人には、相応の人格を求められるだろう。5歳の子供は「ウルトラマンになりたい」と思った。オレはオレで「毒蝮のような大人になりたい」と思っている。


戻る

(c)2000-2003
NANO-GRAPH
ALL RIGHT
RESERVED.